神戸市立博物館編の特別展 須磨の歴史と文化展 ―受け継がれる記憶―を図書館で
借りています。この本のPage136とPage137に明治初期の須磨寺及び大正13年(1924)
の写真と図があったのでこちらを利用してブログ記事としました。
上の写真が上述の図録のPage136に掲載の明治初期の須磨寺です。
明治初期と判るのは撮影者の市田左右太(1843-1896)が神戸(元町通3丁目)に
来たのが明治3年(1870)であること、下の写真の店を元町通2丁目に建てたのが
明治12年(1879)であることからです。
非常に貴重なものです。
この頃は廃仏毀釈の影響もあり、荒廃していました。
明治16年(1883)宮内省から保存費として金百円が下賜されています。
この頃は須磨寺本坊の住職は満願寺の若田智秀師が兼務していました。
以下、復興の歴史と復興に影響を及ぼした関連事項を箇条書きしていきます。
明治21年(1888)6月 長原密浄師が須磨寺蓮生院の住職として着任、復興に着手
後、長原密浄師は福祥寺(須磨寺)及び三塔頭の住職を兼務
この年の11月、山陽鉄道(現JR)の神戸-明石間の営業が開始
明治24年(1891) 須磨寺が神田兵右衛門の協力を得て、桜の木の寄進を募り植樹
以降、桜の名所として知られるようになる
明治28年(1895) 正岡子規が須磨浦で療養、須磨寺付近の句を多数つくる
明治36年(1903) 寄進により須磨寺の護摩堂が再建される
明治39年(1906) 岡倉天心が「茶の本」で須磨寺の若木の桜の制札を紹介
濱田篤三郎(竹坡)翁が経塚を寄進
明治42年(1909) 須磨寺遊園地が開業
明治43年(1910) 兵庫電気軌道株式会社(現山陽電車)兵庫-須磨間が開通
明治45年(1912) 武庫離宮の造営
大正4年(1915) 「須磨の仇波」の悲劇が起こる
大正12年(1923) 旭叟史の句碑が建立「月すみて 松風すみて 須磨の浦」
須磨寺の句碑については下のブログで纏めています。
https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/bfe347f3dffc442069059d00b6d25cb3
大正13年(1924) 尾崎放哉が須磨寺大師堂に堂守として住む
大正15年(1926) 山本周五郎の「須磨寺付近」が文芸春秋より刊行
上の写真は明治15年(1882)に発刊された銅版画集「豪商神兵 湊の魁」で
描かれた神戸元町通2丁目の市田左右太の写真店の木造洋館
最後に大正13年(1924)に刊行の須磨寺全図を添付して筆を置きます。
この頃には立派に復興された須磨寺の姿が想像できます。
出典:上述の神戸市立博物館の図録 Page137
特記事項として明治39年(1906)に濱田篤三郎(竹坡)翁が寄進した経塚の
位置が明示されていましたので絵図の中に書き入れました。