本日は「今日は何の日」9月6日を取り上げます。9月2日から6日は
日本の72候では第42候「禾乃登る(穀物(こくもの)すなわち実る)」です。
田んぼが黄金色に輝く頃。まだまだ日中は暑さが残りますが、北のほうから秋雨前線
が時折あらわれて、とどまれば秋の長雨となります。大きな台風が来る時期でもあります
NHKラジオが選んだ事項
■1976年(昭和51年) ミグ25が函館に強行着陸 搭乗のベレンコ中尉はアメリカへ亡命
■1984年(昭和59年) チョン・ドゥホァン(全斗煥)大統領が国家元首として来日
■1991年(平成3年) バルト三国(エストニア、リトアニア、ラトビア)独立 ソ連解体の始まり
■1998年(平成10年) 黒澤明監督(1910-1998)逝く
■2009年(平成21年) イチロー選手が大リーグ通算2000本安打を達成 259人目
■2018年(平成30年) 北海道胆振東部地震 災害関連死を含めて44人死亡
神戸新聞の小史
・1923年(大正12年)福田村事件発生。関東大震災直後の千葉県福田村(現野田市)
で香川県からの薬の行商人一行が地元の自警団に襲われ幼児を含む9人が殺された
・2007年(平成19年)ババロッティ氏死去 世界3大テノール歌手の1人 伊生まれ
透明感あふれる高音から「キング・オブ・ハイC」と呼ばれた
その他 Wikipediaより引用
・770年 大隅国へ配流の和氣清麻呂が、稱徳天皇崩御・道鏡失脚に伴い都に召還
上の写真は山陽本線の吉永駅と和気駅の間の田んぼの中にある和気清麻呂顕彰碑。
列車の中より撮影:2012-7-18
近くには「和気氏政庁跡」の碑も建っているそうです。
付近の「大政」「国司免」「初米田」などの地名から,和気氏の郡衙(役所)があった地と
いわれています。
碑の近くに下記のような和気町の教育委員会作成の説明書きがあるようです。
「この碑は記紀による日本建国2600年記念事業として昭和15年(1940)岡山県内
教育関係者の寄付および奉仕によって建てられました。
ここは地名を「大政」といい大政所に因むもの、すなわち古代の郡衛・郡家の跡と
推定されて、当時清麻呂公顕彰の風潮下で建碑地となりました。
この地での郡衛・郡家の存在を証する物は未確認ですが、近傍の地名を見ますと
条里地割りに沿って古代山陽官道の駅の跡と思われる地名である
「尺所」(和気町尺所」がある上に「飼葉」(和気町藤野・吉田)の地名もあります。
また、郡田を示す「香炉田」(和気町日室)、郡治に因む「治部田」(和気町藤野・吉田)、
領巾田(采女化粧田)を示す「古布羅田」(和気町藤野)がつづき、郡総社であった
宗堂の地名「宗堂」(和気町泉)もあります。
このように古代郡政関係の地名が周囲に多く並びますので、この辺りに郡衛・郡家が
あったとみて差し支えないでしょう。
なお、この碑から南西約1キロメートルのところに「天永3年(1112年)、大神主・
和気朝臣欽行」の棟札を有する由加神社があり、また北東約1キロメートルには
和気広虫・清麻呂と和気氏先祖・応神天皇を祀っている和気神社があります。」
和気清麻呂についてWikipediaより引用させていただきます。
和気 清麻呂(わけ の きよまろ、天平5年(733年) - 延暦18年2月21日(799年4月4日)
は、奈良時代末期から平安時代初期の貴族。磐梨別乎麻呂(または平麻呂)の子。
氏姓は当初、磐梨別公(いわなしわけのきみ)[1]、のち藤野(輔治能)真人、
和気宿禰、和気朝臣に改めた。官位は従三位・民部卿、贈正三位、正一位。
備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)出身。769年(神護景雲3年)7月頃、
宇佐の神官を兼ねていた大宰府の主神(かんつかさ)、習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)が
宇佐八幡神の神託として、道鏡を皇位に就かせれば天下太平になる、と称徳天皇へ奏上する。
道鏡はこれを信じて、あるいは道鏡が習宜阿曾麻呂をそそのかせて託宣させたとも
考えられているが、道鏡は自ら皇位に就くことを望む。[2]
称徳天皇は側近の尼僧和気広虫(法均尼)を召そうとしたが、虚弱な法均では長旅は
堪えられぬため、弟の和気清麻呂を召し、姉に代わって宇佐八幡の神託を確認するよう、
命じる。
清麻呂は天皇の使者(勅使)として八幡宮に参宮。宝物を奉り宣命の文を読もうとした時、
神が禰宣の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣、宣命を訊くことを拒む。
清麻呂は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出て、与曽女が再び神に
顕現を願うと、身の丈三丈、およそ9mの僧形の大神が出現し、大神は再度宣命を
訊くことを拒むが、清麻呂は与曽女とともに大神の神託、
「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし」[3]を
朝廷に持ち帰り、称徳天皇へ報告した(宇佐八幡宮神託事件)。
762年(天平宝字6年)道鏡は孝謙上皇の病を宿曜秘法を用いて治療し、それ以来、
孝謙上皇と道鏡は密接な関係があったとされる。764年(天平宝字8年)孝謙上皇は
藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)鎮圧の後、淳仁天皇を廃して自ら称徳天皇として
重祚すると、道鏡の権勢は非常に強まり、765年(天平神護元年)太政大臣禅師、
翌766年(天平神護2年)には法王となった。こうした状況に、道鏡に欲が出たのでは
ないか、とも推測されている。さらに、称徳天皇も道鏡を天皇の位に就けたがっていた
とも言われ、清麻呂の報告を聞いた天皇は怒り、清麻呂を因幡員外介にいったん左遷
の上、さらに別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させて大隅国(現在の鹿児島県)
に流罪とした。
神護景雲4年(770年)8月称徳天皇は崩御し、道鏡失脚後、光仁天皇により従五位下
に復位した。その後、播磨・豊前の国司を歴任する。この時清麻呂は自ら強く望んで、
美作・備前両国の国造に任じられている。
785年(延暦4年)には、神崎川と淀川を直結させる工事を行い平安京方面への物流路
を確保した。その後、788年(延暦7年)にのべ23万人を投じて上町台地を開削して
大和川を直接大阪湾に流して、水害を防ごうとしたが工事を行ったが費用がかさんで
失敗している(堀越神社前の谷町筋がくぼんでいるところと、大阪市天王寺区の
茶臼山にある河底池はその名残りとされ、「和気橋」という名の橋がある)。
清麻呂は桓武朝で実務官僚として重用されて高官となる。平安遷都の建設を進言し
延暦12年(793年)自ら造営大夫として尽力した。
・1522年 マゼラン一行のビクトリア号がスペインに帰港し、史上初の世界一周を達成
・1901年 マッキンリー大統領暗殺事件。狙撃され、これがもとで9月14日に死亡
・1916年 史上初めてのセルフ式食料雑貨店ピッグリー・ウィッグリーがオープン
・1919年 (大正8年) 文部省に帝国美術院を創設。初代院長は森鴎外が就任
・1941年(昭和16年)御前会議で「帝国国策遂行要領」決定。戦争準備と並行して日米交渉を進め、10月下旬をめどに日本の要求が通らないようであれば開戦を決意すると決定
・1945年(昭和20年)トルーマン米大統領が「降伏後における米国の初期対日方針」を承認しマッカーサーに指令
・1997年(平成9年) 北野武監督「HANA-BI」がベネチア国際映画祭で金獅子賞
・1997年 ダイアナ元英国皇太子妃の、国葬に準ずる「国民葬」が行われる