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2020神戸空襲と神戸港の写真展を観覧して on 2020-11-7 

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2020年11月1日から11月7日の会期で表題の展示会が開催され私は11月7日に観覧した。

展示会では約100点の貴重な資料や写真が展示されました。写真撮影が可能であったので

写真を撮らせていただきました。この中から特に気になった資料や写真を記憶に留める

ためにブログを作成していきます。

会場は長田区文化センターで、主催者は「神戸に平和記念館をつくる会」(078-277-2636)

展示会の副題として「神戸に平和記念館を」とつけられていました。

展示会は2015年からスタートし今回で6回目となります。

後援は神戸市、神戸市教育委員会、神戸新聞社、サンテレビジョンでした。

展示会のリーフレットを添付しておきます。(下の写真)

前置きが長くなりました。早速本題に入っていきます。

展示遠景

上の3枚の写真は展示の遠景

「神戸大空襲(こうべだいくうしゅう)とは、第二次世界大戦(大東亜戦争)末期に
アメリカ軍が繰り返し行った、神戸市およびその周辺地域に対する戦略爆撃・
無差別攻撃の総称である。
特に兵庫区や林田区など西神戸に大きな被害を出した1945年(昭和20年)
3月17日と、東神戸および阪神間の町村を壊滅させた同年6月5日の爆撃を
指して用いられることが多い。」以上はWikipediaより引用
   原文は下記のサイト。
  http://en.wikipedia.org/wiki/Bombing_of_Kobe_in_World_War_II
上記2回の空襲に2月4日の神戸市街地への空襲、5月11日の川西航空機
(現新明和工業)甲南製作所への空襲、8月6日の西宮から御影市街地の空襲を
加えた計5回の空襲が大規模なものでこれを神戸大空襲と呼ぶ。

5回の空襲(神戸大空襲)について概要をまとめたのが下記である。
出所は神戸市文書館のサイト
  (タイトルは米軍資料にみる神戸大空襲)

昭和20年(1945)
月日     機種   機数  弾種      トン数   第一目標
2月 4日  B29  69  焼夷弾、破砕弾  172.8   神戸市街地
3月17日  B29  307 焼夷弾、破砕弾  2328.1  
5月11日  B29  92  爆弾       459.5   川西航空機深江製作所
6月 5日  B29  474 焼夷弾、破砕弾  3079.1  
8月 6日  B29  250 焼夷弾、破砕弾  2003.9   阪神地域



神戸空襲を記録する会編 神戸大空襲 のじぎく文庫(1972)には

3月17日の夜間大空襲で兵庫区、林田区、須磨区湊東区、葺合区を中心に

2,558人の死者があったと記されています。

5月11日の本庄村青木の川西航空機を第1目標とした空襲は工場従業員138人の
死者とわずか30分ほどの空襲で計1,203人の死者が出た。

6月5日の空襲では葺合区で1,041人、生田区で815人、須磨区で720人など
合計3,184人の死者があった。

8月6日 午前2時台の西宮、芦屋を中心とし姫路までの広域での空襲で
930人を上回る死者が出た。

昭和20年2月6日から8月6日までの空襲による神戸市街地での死者は6,235人
(神戸空襲を記録する会編 神戸大空襲 のじぎく文庫(1972) Page136より引用)

本には終戦間際にB29が投下したビラを紹介している(Page244)
ここで初めて1945年7月26日のポッダム宣言の諸降伏条件が
紹介され日本政府が受諾することを連合軍が希望しているという内容が
書かれています。(下の写真)

 

神戸にあった高射砲の基地

上の写真は高射砲123連隊の配置図

運河、和田岬、大倉山、371基地に高射砲中隊が置かれた

上の写真は高射砲基地に関する説明パネル

 

全国主要都市の空襲被害

神戸空襲では128回の空襲があった。この回数は全国でも一番多い回数である。

神戸の死者8,841人、損失家屋数154,564という数値が記載されています。

(東京は73回の空襲で死者95,946人、損失家屋数755,735)

東京大空襲については下のブログ記事を書いています。

 昭和の選択 東京大空襲が生んだ悲劇の傑作「噫(ああ)横川国民学校」を視聴して

 東京大空襲から70年 on 2015-3-10

 NHKスペシャル 東京大空襲を視聴して

 東京大空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

マリアナ諸島に米軍の航空基地が設置されるとともに、本土空襲が本格的に開始され、

昭和19年(1944)11月からは高高度精密爆撃により航空機工場や軍設備が狙い撃ち

された。昭和20年(1945)3月以降は低空から大量の焼夷弾を投下する市街地無差別爆撃

が始まり、東京、名古屋、大阪、神戸などの大都市に続いて、5月下旬からは地方都市

が次々と焼け野原となった。

神戸大空襲体験記

上の2枚の写真は昭和8年生まれの方の体験記です。

米軍資料による神戸大空襲

上の写真は米軍が撮影した神戸港の写真です。

神戸大学院人文学研究科地域連携センターの佐々木和子研究員は米国戦略爆撃調査団

の報告書などを基に神戸空襲を研究され報告書も出されています。

川西航空機甲南製作所への爆撃

上の写真は昭和20年(1945)5月11日の神戸大空襲で爆撃された川西航空機甲南製作所

疎開していたジュラルミン100トンを使用して元町ジュラルミン街が形成された。

 

神戸市疎開空き地・焼失区域並繊細地図

上の写真は辻信一さんが纏められた戦災地図と解説文です。

凄い力作です。

ノーベル平和賞受賞者と核戦争阻止

上写真はノーベル平和賞を受賞した人々

このリスト掲載されていませんが昭和42年(1967)に非核三原則を表明した

佐藤栄作首相もこの業績によりノーベル平和賞を受賞されています。

非核三原則に関連する事項をWikipediaより引用紹介します。

非核三原則の表明
こうしたなか1967年(昭和42年)12月8日の衆議院本会議で、公明党の竹入義勝議員が
「(アメリカ合衆国からの)小笠原の返還にあたって、製造せず、装備せず、持ち込まずの
非核三原則を明確にし得るかいなか、見通しを伺いたい」と質問したのが、
国会議事録に非核三原則という言葉が載った最初である[10]。

1967年(昭和42年)12月11日の衆議院予算委員会において日本社会党委員長の成田知巳が、
アメリカ合衆国から返還の決まった小笠原諸島へ核兵器を再び持ち込むことへの可能性について
政府に対して質問した際、佐藤栄作内閣総理大臣が、

日本は「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」
という非核三原則を主張するということを示した[11]。

特定海域
領海を12海里とする主張が世界的に優位になったことを受け、日本は1977年(昭和52年)に領海法を制定し、
これまでの3海里の幅の領海を12海里に拡張した。
この立法趣旨に従えば5海峡(宗谷海峡、津軽海峡、対馬海峡東水道、同西水道、大隅海峡)は
領海が12海里になるはずだが、この5海峡にかぎって3海里に留められている。
その理由は非核三原則にあるといわれている[19]。

仮に、この5海峡の領海幅を3海里から12海里にしてしまうと、5海峡は完全に日本の領海になる。
一方、国際法(海洋法条約38条2)では、国際海峡における外国の船舶及び航空機の無害通航権が認められている
(それは核兵器を搭載した外国の軍艦あるいは軍用機であっても同じである)。
とすると、核兵器を搭載した外国の軍艦が当該海峡を通過する場合、日本は国際法上、軍艦の通過は拒否できず、
結果として領海内に核兵器が持ち込まれたこととなり、非核三原則の「持ち込ませず」の原則を堅持できなくなるのである[19]。

そこで、海峡上に領海に含まれない海域を残し、核兵器を搭載した軍艦をこの海域上を通航させることによって、こういった事態に対処しようとしたのである[19]。

その他
非核三原則を表明した佐藤栄作は1969年(昭和44年)1月14日付で米国政府に送った公電で
「非核三原則はナンセンスだ」と発言したことが、アメリカの公文書から明らかになっている。
「核の持たず、つくらず」は堅持した上で「核の持ち込み」については日本の領土に配置を認めないが、
日本の領海において寄港や通航を認めることを「非核二・五原則」と表現させることがある[20]。

10.^ 国会議事録検索システム
11.^ 1967年(昭和42年)12月11日衆議院予算委員会 議事録

19.^ a b c “核通過優先で5海峡の領海制限 元外務次官証言”. 47NEWS. 共同通信 (全国新聞ネット). (2009年6月21日) 2010年3月15日閲覧。
20.^ “外務省が二・五原則化を模索 非核三原則堅持の内閣に重い課題 密約参考人質疑”. MSN産経ニュース (産経デジタル). (2010年3月19日) 2010年3月20日閲覧。[リンク切れ]

非核神戸方式に関する展示もありましたが写真を撮り忘れました

 

遺書

徳田正吾さんが母親に宛てた遺書

徳田正吾さん(7月24日宝塚空襲で爆死)について遺書を書いた経緯などが書かれた

説明パネル

戦後復興

上の写真は神戸空襲で被爆した地域(橙色)と被災復興区画整理事業計画区域界(青字)

上の写真は戦後まもなく三宮における靴磨き風景

 

神戸にも平和記念館を

「神戸にも平和記念館を」に関する展示

 

神戸大空襲関連の小生のブログ:

1945年8月17日に神戸市に原爆が投下されたかも知れない

今日は何の日  6月8日  本土決戦の方針が決定された - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報 (goo.ne.jp) 

上記ブログに「2020年6月7日(日)神戸空襲から75年、新たに148人分の犠牲者の名が

大倉山公園の慰霊碑に刻まれました。」という内容の写真を添付

昭和天皇実録

戦災殉難者慰霊碑 in 大輪田橋東たもと on 2017-8-8

神戸大空襲

神戸空襲の碑 除幕式 on 2013-8-15


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