大丸神戸店(42番)の西側に、1967年4月神戸港開港100年を記念して建立
された神戸外国人居留地跡の碑があります。それと神戸旧居留地95番の北側
にも神戸外国人居留地跡の碑があります。写真で紹介していきます。
この碑が建つ場所は旧神戸外国人居留地の42番にあたり明治元年(1868)
9月10日第1回の競売が行われ42番はオランダのコルト・ハウスが1坪
8.05分(2.4ドルから5.0ドル)で落札したのでこの地に建てられたのか?
第1回の競売で旧居留地全体の4分の1が落札されたとのことである。
(撮影日:2011-2-4)
上の写真は神戸外国人居留地跡の碑の中にある旧居留地の設計図で1870年
Plan of the Kobe foreign settlement と記載されています。
設計者は英国の土木技術者 J.W.ハートである。
尚、旧居留地は明治32年(1899)まで存続した。
開港は1868年1月1日。
全9条からなる大坂兵庫外国人居留地約定書=Arrangement relative to
The foreign settlement at the port of Hiogo and at Osaka)が
旧居留地の根拠となる協定書である。
番地などが読みづらいので田井玲子氏著の外国人居留地と神戸 -神戸開港150年
によせて-より引用し居留地の地番を示しました(上の写真)
上の3枚の写真は神戸旧居留地95番の北側にある神戸外国人居留地跡の碑です
(撮影日:2016-3-13)
説明版が読みにくいと思いますのでそのまま引用させていただきます。
「この地より南西一帯にかけて、外国人居留地が慶応3年12月7日(1868年)の
兵庫開港とともに計画され、明治32年7月17日(1899年)まで存続していた
この居留地は、開港に際して活躍した英国人技師ジョン・ウィリアム・ハート
(1836年-1900年)により整然とした都市計画がたてられ、美しい街並みが
形成された。この敷地の95番は明治3年に英国人ジョン・ホットソンに競売
され、外国商館が建てられた。なお、旧居留地内は神戸市により都市景観形成
地域に指定されている。 昭和60年3月」
上の写真は上記碑の遠景です。(撮影日:2016-3-13)
これまでに神戸旧居留地の面影をテーマにいろいろと写真紹介していますが
47番地を紹介したことがないので簡単に紹介していきます。
上の3枚の写真は現在の47番です。 撮影日:2016-3-6
ニッケや有名ブランドの「Gucci」が入っています。
上の写真は日本毛織の看板がかかっているビルの入り口の説明版
昭和12年(1937)に竣工したと書かれています。
上の写真はさらに奥に入ったところに掲示の説明版で関西学院大学の創始者の
ウォルター・R・ランバス(1854-1921)が1886年に日本に赴き47番から
布教活動や関西学院大学の設立活動をした旨が描かれた説明版です
上の写真は明治時代中期の47番が写ったものです(説明版より)
上の写真は昭和15年(1940)の47番地付近の旧居留地。
(神戸市立博物館に展示の模型より)
47番地の入居者について簡単に記しておきます。
1870年(明治3年)5月16日 英国エルマン 競売にて獲得 約323坪
1877年(明治10年) R.Richter
1886年(明治19年) ヨウロッパホテル旅館
エ・ヲエストマン(A.Oestmann)
ハンボルグ・ブレメン火災保険会社代理
1897年(明治30年) エ・エストマン商会 館主:A.Oestmann 番頭:北村鶴三郎
A.Oestmannの住居も兼ねる
1905年(明治38年) エ・エストマン商会(独)
営業種目 輸入:電機諸機械、毛織物、カタン糸、製革、
金物類、護謨、器械、時計、紙其の他小間物類
輸出:天産物
L.Bobsienの住居も兼ねる
1919年(大正8年) 大正汽船株式会社
1937年(昭和12年) 日本毛織株式会社 本社ビルを建設
1991年(平成3年) 本社事務所を移転 この地、47番は登記上の本店となる
1993年(平成5年) BLOCK47
上の写真は明治30年(1897)の47番地付近の旧居留地。
(神戸市立博物館に展示の模型より)
された神戸外国人居留地跡の碑があります。それと神戸旧居留地95番の北側
にも神戸外国人居留地跡の碑があります。写真で紹介していきます。
この碑が建つ場所は旧神戸外国人居留地の42番にあたり明治元年(1868)
9月10日第1回の競売が行われ42番はオランダのコルト・ハウスが1坪
8.05分(2.4ドルから5.0ドル)で落札したのでこの地に建てられたのか?
第1回の競売で旧居留地全体の4分の1が落札されたとのことである。
(撮影日:2011-2-4)
上の写真は神戸外国人居留地跡の碑の中にある旧居留地の設計図で1870年
Plan of the Kobe foreign settlement と記載されています。
設計者は英国の土木技術者 J.W.ハートである。
尚、旧居留地は明治32年(1899)まで存続した。
開港は1868年1月1日。
全9条からなる大坂兵庫外国人居留地約定書=Arrangement relative to
The foreign settlement at the port of Hiogo and at Osaka)が
旧居留地の根拠となる協定書である。
番地などが読みづらいので田井玲子氏著の外国人居留地と神戸 -神戸開港150年
によせて-より引用し居留地の地番を示しました(上の写真)
上の3枚の写真は神戸旧居留地95番の北側にある神戸外国人居留地跡の碑です
(撮影日:2016-3-13)
説明版が読みにくいと思いますのでそのまま引用させていただきます。
「この地より南西一帯にかけて、外国人居留地が慶応3年12月7日(1868年)の
兵庫開港とともに計画され、明治32年7月17日(1899年)まで存続していた
この居留地は、開港に際して活躍した英国人技師ジョン・ウィリアム・ハート
(1836年-1900年)により整然とした都市計画がたてられ、美しい街並みが
形成された。この敷地の95番は明治3年に英国人ジョン・ホットソンに競売
され、外国商館が建てられた。なお、旧居留地内は神戸市により都市景観形成
地域に指定されている。 昭和60年3月」
上の写真は上記碑の遠景です。(撮影日:2016-3-13)
これまでに神戸旧居留地の面影をテーマにいろいろと写真紹介していますが
47番地を紹介したことがないので簡単に紹介していきます。
上の3枚の写真は現在の47番です。 撮影日:2016-3-6
ニッケや有名ブランドの「Gucci」が入っています。
上の写真は日本毛織の看板がかかっているビルの入り口の説明版
昭和12年(1937)に竣工したと書かれています。
上の写真はさらに奥に入ったところに掲示の説明版で関西学院大学の創始者の
ウォルター・R・ランバス(1854-1921)が1886年に日本に赴き47番から
布教活動や関西学院大学の設立活動をした旨が描かれた説明版です
上の写真は明治時代中期の47番が写ったものです(説明版より)
上の写真は昭和15年(1940)の47番地付近の旧居留地。
(神戸市立博物館に展示の模型より)
47番地の入居者について簡単に記しておきます。
1870年(明治3年)5月16日 英国エルマン 競売にて獲得 約323坪
1877年(明治10年) R.Richter
1886年(明治19年) ヨウロッパホテル旅館
エ・ヲエストマン(A.Oestmann)
ハンボルグ・ブレメン火災保険会社代理
1897年(明治30年) エ・エストマン商会 館主:A.Oestmann 番頭:北村鶴三郎
A.Oestmannの住居も兼ねる
1905年(明治38年) エ・エストマン商会(独)
営業種目 輸入:電機諸機械、毛織物、カタン糸、製革、
金物類、護謨、器械、時計、紙其の他小間物類
輸出:天産物
L.Bobsienの住居も兼ねる
1919年(大正8年) 大正汽船株式会社
1937年(昭和12年) 日本毛織株式会社 本社ビルを建設
1991年(平成3年) 本社事務所を移転 この地、47番は登記上の本店となる
1993年(平成5年) BLOCK47
上の写真は明治30年(1897)の47番地付近の旧居留地。
(神戸市立博物館に展示の模型より)