「神兵豪商 湊の魁」という明治15年(1882)発行の商店紹介絵図のPage69
に本日紹介します兵庫新川 米商会所 が載っていますので簡単に紹介します。
兵庫米商会所は明治10年(1877)に兵庫津の北風正造(北風荘右衛門貞忠)
が元締めとなって設立されました。
上の写真の左手の屋上には旗を振って相場を伝達している旗振り通信の様子
が描かれています。
相場は諏訪山で受けて東側では金鳥山などへ繋がれ堂島へ通じた。
堂島からは逆コースで岡山方面まで伝達された。
その頃既に電話が開通していたが相場伝達に利用されるようになるのは明治末
から大正にまでかかった。
明治の初期には全国16箇所ある米穀取引所があり主な米商会所は以下の
とおりであった。東京、堂島、赤間関、兵庫、金沢、名古屋、高岡
明治の中期(明治28年)には114の取引所に発展していった。
明治10年(1877)に設立の兵庫米商会所は明治22年(1889)10月5日から
神戸取引所と改称され明治23年(1890)1月5日に初立合が行われた。
神戸取引所では一部:米、雑穀、石油、肥料
二部:諸株、諸公債 を扱っていた。
理事長:池田貫兵衛 理事:沢野定七 他会員22名
仲買人:46名
明治24年(1891)6月に東川崎町から兵庫鍛冶屋町11番邸に移転
大正8年(1919)神戸取引所は株式会社 神戸取引所に改称
時期は不明であるが旧居留地の播磨町に移転している。
昭和9年(1934)朝日ビルが完成する頃には神戸証券取引所と発展していくが
第2次世界大戦中には取引が一旦中断し、昭和24年(1949)再開。
昭和42年(1967)10月に廃止されるまで存続した。
に本日紹介します兵庫新川 米商会所 が載っていますので簡単に紹介します。
兵庫米商会所は明治10年(1877)に兵庫津の北風正造(北風荘右衛門貞忠)
が元締めとなって設立されました。
上の写真の左手の屋上には旗を振って相場を伝達している旗振り通信の様子
が描かれています。
相場は諏訪山で受けて東側では金鳥山などへ繋がれ堂島へ通じた。
堂島からは逆コースで岡山方面まで伝達された。
その頃既に電話が開通していたが相場伝達に利用されるようになるのは明治末
から大正にまでかかった。
明治の初期には全国16箇所ある米穀取引所があり主な米商会所は以下の
とおりであった。東京、堂島、赤間関、兵庫、金沢、名古屋、高岡
明治の中期(明治28年)には114の取引所に発展していった。
明治10年(1877)に設立の兵庫米商会所は明治22年(1889)10月5日から
神戸取引所と改称され明治23年(1890)1月5日に初立合が行われた。
神戸取引所では一部:米、雑穀、石油、肥料
二部:諸株、諸公債 を扱っていた。
理事長:池田貫兵衛 理事:沢野定七 他会員22名
仲買人:46名
明治24年(1891)6月に東川崎町から兵庫鍛冶屋町11番邸に移転
大正8年(1919)神戸取引所は株式会社 神戸取引所に改称
時期は不明であるが旧居留地の播磨町に移転している。
昭和9年(1934)朝日ビルが完成する頃には神戸証券取引所と発展していくが
第2次世界大戦中には取引が一旦中断し、昭和24年(1949)再開。
昭和42年(1967)10月に廃止されるまで存続した。