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時宗の開祖「一遍上人」の生涯

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2022年12月14日(水)、NHKBSプレミアム英雄たちの選択「踊って踊って大ブーム一遍上人「鎌倉武士」を捨てた男を視聴しました。
これに刺激を受けて時宗の開祖「一遍上人」の生涯について纏めることにしました。注記していない写真は上記番組からのものです。上の写真は藤沢市の時宗の総本山、清浄光寺(遊行寺)蔵の一遍像。一遍(1239-1289)は、鎌倉時代中期の僧侶。時宗の開祖。
「一遍」は房号であり、法諱は「智真」。「一遍上人」、「遊行上人」、「捨聖」と尊称される。近代における私諡号は「円照大師」、1940年に国家より「証誠大師」号を贈られた。俗名は河野時氏  、通秀、通尚 ともいうが、定かでない。


いきなりですが一遍上人(1239~1289)の年譜から入っていきます。
一遍上人の年譜
西暦     年号    年齢    事項
1239  延応元  1   一遍上人は河野水軍を率いた河野通広の第2子として伊予で誕生。           幼名を松寿丸という。祖父は河野通信                                        一遍を中心とした河野氏の系図を添付しておきます。上の写真は大野保治さんの著作「鉄輪温泉開基の 一遍上人とその生涯」からの引用原典は(故)浅山円祥(松山市宝巖寺住職)著「一遍と時宗」大野さんの著作は下記PDFで見れます。 bs01505.pdf (beppu-u.ac.jp)

1248  宝治二  10   母に死別。出家して随縁と名のる。

1251  建長三  13   浄土宗西山派の弟子、太宰府の聖達上人を僧善入と訪れる。
           聖達の勧めで肥前清水の華台を訪ね、修学智真と改名する。
上の写真は一遍聖絵第一巻第一段二 僧善入に伴われて出発する隨縁(一遍上人)出典:長島尚道著 絵で見る一遍上人伝 Page12-13 (2007)

1252  建長四  14   聖達上人のもとに帰り、浄土教を学ぶこと12年。上の写真は聖達上人のもとに帰る一遍上人。一遍聖絵 第一巻第一段五出典:長島尚道著 絵で見る一遍上人伝 Page14-15 (2007)

1263  弘長三  25   5月24日父通広(如仏)が亡くなり、故郷に帰る。
           これより半僧半俗の生活を送る。結婚し子供も生まれる上の写真は伊予において親戚の武者より斬りつけられる一遍上人。土地相続で親戚縁者との争いがあった。一遍上人はなんとか生き延び、再び仏教の世界へ戻っていきます。

1271  文永八  33  一念発起して再び出家する。聖達上人を再訪。弟子で弟の聖戒も出家
           春、善光寺へのこもり、二河白道のの本尊を描く。
           秋、本国伊予に戻り窪寺に閑居、3年間、念仏三昧の修行をする。
           十一不二頌を作り、一切を捨て衆生済度の志を立てる。

1273  文永10  35  7月、菅生の岩屋寺に参籠し、遁世の素意を祈る。
           田園舎宅を捨てて、諸国修行に出ることになる。
1274  文永11 36 2月8日、同行三人(超一、超二、念仏房)と伊予をあとにして、           遊行の旅に出る。超一は妻、超二は娘、念仏房は使用人


上の写真は一遍上人が伊予の家を出る時の様子を描いたもの。この時には聖戒も一緒に出発。出典:長島尚道著 絵で見る一遍上人伝 表紙 (2007)
          5~6日後、桜井(今治)で聖戒(弟)と別れる。天王寺にこもり、
           十重禁戒を受け、念仏賦算(南無阿弥陀仏と書かれた
           お札をくばること)をはじめる。この頃、一遍に改名。
           夏、高野山を経て熊野にこもる。本宮証誠殿で山伏姿の熊野権現
           より念仏賦算の神託を受け、「六十万人頌」を感得し、
           六十万人知識一遍と号す。上の写真は一人の僧から念仏札を受け取らないと拒否される場面押し問答の末、無理矢理にお札を渡します。一遍聖絵第三巻第一段 熊野

上の2枚の写真は熊野本宮 証誠殿で熊野権現から夢告を受ける一遍上人一遍聖絵第三巻第一段
           6月13日、新宮から聖戒に便りして念仏の形木を送る。
           11月、蒙古襲来(文永の役)

1275 健治元 37  京都に行く。九州に行く。

1276  建治二  38  再び伊予を通り九州へ渡り、聖達上人を訪ね、一遍の念仏を説く。           大隅正八幡宮に参籠。豊後大友頼泰帰依。ここでのちの遊行二祖           他阿真教上人が入門する。上の写真は九州大隅正八幡に詣でるの場面(九州修業) 一遍聖絵第四巻第二段一出典:長島尚道著 絵で見る一遍上人伝 Page42-43 (2007)

1278  弘安元  40    夏、伊予へ。秋、安芸の厳島。
            冬、備前藤井で吉備津宮の神主の子息夫婦を教化。
            出家するもの二百八十余人。

1279  弘安二  41    春、都へ上がり因幡堂に宿す。
            8月、因幡堂を出て善光寺に向かう。48日後、善光寺に到着。
            12月、信濃国(長野県)佐久郡伴野で歳末別時念仏を修行する。

上の2枚の写真は信濃小田切の地は承久の乱(1221)で後醍醐上皇側につき破れ信濃の流布された叔父河野通末の墓がある場所でもあった。一遍上人は一族の墓参も兼ねての遊行であった。
            大井太郎帰依。踊り念仏をはじめる。

1280  弘安三  42    秋、下野(栃木県)小野寺。白河関を越えて奥州入り、
            江刺郡でこの地に流された祖父通信の墓(聖塚)に墓参。(下の写真)            一遍聖絵第五巻第三段

1281  弘安四  43    松島・平泉をめぐり、常陸を修行。上の写真は常陸国を進行する一遍上人一行 人数は30人位になっていた。鎌倉に向けて進行しています。一遍聖絵 第五巻第四段
            武蔵石浜(浅草)で時衆4、5人病にふす。
            蒙古襲来(弘安の役)


1282  弘安五  44    3月1日、鎌倉に入ろうとして執権・北条時宗の一行に制止され、
上の写真は一遍上人の一行が巨福呂(こぶくろ)坂より鎌倉に入ろうとしたが、巨福呂坂より山の内に向かう関所にさしかかったところで武士の制止に会い鎌倉には入れなかった。一遍聖絵 第五巻第五段           片瀬海岸(藤沢市)の地蔵堂で念仏を勧め滞在。踊り念仏行う。
上の写真は片瀬の一遍上人地蔵堂跡の現地説明板一遍上人の一行は鎌倉には入れなかったが片瀬の地で踊り屋を建て踊り念仏を踊った。鎌倉から多くの見物人が集まった。上の写真は片瀬での踊念仏の様子 盛況ぶりが判る一遍聖絵第六巻第一段
            7月16日、片瀬をたち、伊豆三島明神に参詣。

1283  弘安六  45    尾張甚目寺(7日の行法)-萱津-美濃-近江をめぐる。
上の写真は近江での踊念仏 一遍聖絵 第七巻第一段

1284  弘安七  46    閏(うるう)4月16日、近江関寺から四条京極釈迦堂に入る。
上の写真は釈迦堂で念仏札を配る一遍上人 一遍聖絵 第七巻第二段
           因幡堂-三条悲田院-蓮光寺-雲居寺-六波羅蜜寺-市屋とめぐる。上の写真は市屋道場での念仏踊りの様子 一遍聖絵第七巻第三段
           市屋は空也上人の遺跡で現在の西本願寺あたりで念仏踊りを行う。
           5月22日、市屋をたって桂に移る。
           秋、北国に向かい、穴太寺にこもる。
1285    弘安八    47      5月上旬、丹後久美浜・但馬くみで竜神の血縁。                                    因幡-伯耆-美作をめぐり、美作一の宮へ参詣。
1286    弘安九  48  天王寺-住吉-聖徳太子廟-当麻寺。        冬、石清水八幡宮-淀の上野-印南野教信寺に一夜泊まる。        再び天王寺にもどり別時念仏をする。上の写真は淀での踊念仏 一遍聖絵 第九巻第一段

1287  弘安十  49  1月1日、天王寺如一上人入寂。一遍上人ら葬送する。           尼崎-兵庫光明福寺とめぐる。          春、播磨書写山-松原八幡で「別願和讃」を作る。
          3月1日、十二道具の持文を書く。           備中軽部宿-備後一宮-安芸厳島と遊行する。
1288  正応元  50  伊予に渡る。菅生岩屋寺-繁多寺に3ヵ月こもる。         12月16日、大三島大山祇(おおやまずみ)神社にこもる。
1289  正応二  51  2月6日、再び大三島へ参り、生贄をとどめる。           讃岐善通寺-曼荼羅寺をめぐる。          6月1日、阿波・大島里河辺で発病する。          7月はじめ、阿波をたち、淡路島福良に移る。           二宮-しつき天神社。          7月18日、明石に渡る。          兵庫より迎えの舟が来て兵庫観音堂(現在の時宗真光寺)に入る。上の写真は迎えの舟で兵庫津に向かう一遍上人一行一遍聖絵 第十一巻第三段
          8月2日、遺誡の詞を聖戒に書きとらせる。          8月10日、所持の書籍等、持ち物を焼く。          8月23日、辰の始(朝7時)入寂する。上の写真は一遍上人の遷化場面 一遍聖絵 第十一巻第四段上の写真は一遍上人の骨蔵器を持つ真光寺住職の長島尚道さん中に入っている骨は非常に少ない一遍上人とかかわりのあった人々が持っていったと推察。
一遍が配った念仏札
上の写真は米国ハーバード美術館と2014年に発見された一遍上人が配布した念仏札南無阿弥陀仏の他に決定往生(けつじょうおうじょう)、六十万人と記載。決定往生とは極楽往生が既に決まっているという意味で、六十万人というのは一切衆生(すべての人々)という意味だがまずは60万人とした。

念仏踊り By Youtube動画
念仏踊りとして伝承されている長野県佐久市跡部西方寺と神戸市兵庫区真光寺の踊りを動画で紹介します。
長野県佐久市跡部 西方寺 踊り念仏(Gooで共有)
神戸市兵庫区真光寺で一遍上人を偲び踊り念仏 on 2014-9-16 その1  
神戸市兵庫区真光寺で一遍上人を偲び踊り念仏 on 2014-9-16 その2  
神戸市兵庫区真光寺で一遍上人を偲び踊り念仏 on 2014-9-16 その4
 一遍聖絵一遍聖絵=絹本著色一遍上人絵伝は正安元年(1299)一遍の弟で弟子でもある聖戒が文章を担当し制作勧進者は関白九条忠教(ただのり)法眼の地位にあった画僧の円伊が絵を描いたとある。絵は工房による作で藤原経尹(つねふさ)他数名の詞書12巻から構成されています。巻7の絵は後補。各巻の長さは約10m。京都市の歓喜光寺蔵で明治33年(1900)4月7日と昭和27年(1952)3月29日に国宝に指定。現在の所有者は清浄光寺(遊行寺)第7巻は東京国立博物館蔵歓喜光寺は聖戒(不明~1323)が開山。

上述の番組では清浄光寺(遊行寺)の一遍聖絵が紹介されていました。
国立国会図書館のデジタルアーカイブで見れます(下記サイト) 一遍聖繪. [1] - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
Youtube動画で「一遍聖絵」が紹介されていたのでGooで共有させていただきました。浜島書店 デジタル絵巻「一遍聖絵」のご案内
時宗の概要
仏教 主要13宗派の基本情報 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)上記ブログで一遍上人が開祖した時宗について次のように書いています。9.時宗 開宗年:1274年(文永11年) 大本山:遊行寺 経典:「浄土三部経」 信徒数:約6万人 特記事項:宗祖は一遍 本尊は「南無阿弥陀仏」の名号
もう少し詳しく書いておきます。
神戸市内の時宗の主な寺(福原西国観音霊場よりピックアップ)
1番 医王山薬仙寺 時宗
  住所:神戸市兵庫区今出在家町4丁目1-14
  御詠歌:「諸人の願ひのままになる薬恵む仏のちかひたのもし」
25番 梅松山満福寺 時宗
 住所:神戸市兵庫区東柳原町1−13
 御詠歌:「ひとすじにたのみて参れ満福寺 ただみほとけの深きちかひを」
33番 西月山真光寺 時宗
 住所:神戸市兵庫区松原通1-1-62
 御詠歌:「みな人のつひにいらんもこなたへと 月落ちかかる西の山の端」
番組では万福寺の住職の岩田尚登さんと踊躍プロジェクトの紹介もありました上の写真は岩田尚登さん(万福寺住職)の出演場面

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