2023年4月3日に放送が始まった連続テレビ小説『らんまん』。主人公のモデル・牧野富太郎博士の書斎が復元されているとの映像を視聴した。
記憶に留めるため、何枚かの写真を添付しておきます。出典:2023年3月23日 NHKニュース 朝5時45分頃から5時49分
特記しない限り、上述の番組からの写真です。
上の写真は晩年、東京都練馬区大泉の自宅の書斎前にて調べものをする牧野富太郎博士。出典は下に本の表紙添付の「牧野富太郎の人生」(2023)のPage14
東京練馬区の自宅は大正15年(1926)に居を構え昭和32年(1957)94歳で亡くなるまで住んでいたところで昭和33年(1958)、住居跡を練馬区立牧野記念庭園として整備されています。書斎を再現するプロジェクトは牧野富太郎の曾孫で牧野記念庭園の学芸員の牧野一浡(かずおき)さん(下の写真)が中心となって進められています。
上の写真は復元作業の紹介牧野博士の自宅跡に整備された、東京 練馬区の牧野記念庭園では、博士が晩年を過ごした書斎を再現する計画が進められています。
上の写真は復元された書斎 本が山の様に積まれています。
牧野博士は生前、植物の研究書などおよそ4万5000冊を集め、蔵書の山に囲まれるようにして研究に没頭していた姿が知られています。
再現する書斎ではおよそ2000冊の蔵書などを再現する計画で、練馬区は、94歳で亡くなるまで尽きることのなかった研究への意欲を伝えたいとしています。
上の3枚の写真は昭和30年より以前の書斎の様子
尚、牧野富太郎博士の蔵書の価値は20億円と上述の本に書いてありました。
上の写真は牧野富太郎博士(93歳の頃)と曾孫の牧野一浡さん(昭和30年頃)この頃は病で臥せていた。
牧野記念庭園の学芸員で、博士のひ孫の牧野一浡(かずおき)さんは「牧野博士が生きていた頃は書斎は本や文房具でいっぱいでした。晩年まで研究への意欲が衰えず、最後まで仕事をしたかった人で、その雰囲気を再現したい」と話しています。
上の写真は復元された書斎
番組では牧野富太郎博士を支えた妻の寿衛(スエ子)についても紹介されていました。
牧野富太郎博士は借金してでも植物の研究のために必要なモノや情報を集めました。
牧野富太郎博士と寿衛の間には12人の子供がいたそうですがその子供達には父親は一生懸命働いている(研究に打ち込んでいる)と子供達に教えていた。
上の3枚に写真は練馬区立牧野記念庭園に建てられた牧野富太郎博士の銅像とその前の妻の名前をつけたスエコザサ及び富太郎が妻に感謝の気持ちを伝える詩上の写真は練馬区立牧野記念庭園 の展示を説明されている牧野一浡さんと説明を受けるNHKの清水若葉さん牧野一浡さんは牧野富太郎博士の植物デッサンについて上の写真のように評しておられます。
これから朝ドラ「らんまん」を熱心に視聴したいと思っています。あくまでもドラマなので史実を忠実に再現しているかどうかは別門題。
でも楽しみです。
最後に牧野富太郎博士の年譜を添付して筆を置きます
文久2年(1862)4月24日、土佐国佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)の裕福な商家に生まれた。幼名は成太郎。幼い頃、両親をなくし祖母に育てられた。幼少のころから植物に興味を示していた。明治5年(1872)10歳、寺小屋で習字を学ぶ明治6年(1873)11歳、明教館(めいこうかん)で西洋の学問に触れる明治7年(1874)12歳、佐川小学校に入学明治9年(1876)14歳、佐川小学校を自主退学 地元の学校の教師などから英語を学び、植物の採集、写生、観察など研究を続けながら、気ままな生活を送っていた。欧米の植物学も勉強し、当時の著名な学者の知己も得るようになる。明治12年(1879)17歳、高知市に出て五松学舎に学ぶ。コレラを罹患し帰郷明治13年(1880)18歳、永沼小一郎(地元の旧制中学教師)と知り合う明治14年(1881)19歳、第2回内国博覧会の見学のため東京へ。 書籍や顕微鏡が欲しくなるなど研究心が固まったのも東京行きの理由である。 田中芳男などと知り合う明治17年(1884)22歳、2回目の上京。東京大学植物学教室に出入りする。理科大学で谷田部良吉、松村任三と知り合う明治20年(1887)25歳、「植物学雑誌」の創刊に関わる。祖母の浪子が病死。神戸の裏山、布引の滝周辺で植物採集する。明治21年(1888)26歳、壽衛(すえ)と暮らし始める。 「日本植物志図篇」刊行開始。今で言う植物図鑑のはしりである。明治22年(1889)27歳、日本で初めて新種「ヤマトグサ」に学名をつける。 『植物学雑誌』に発表明治23年(1890)28歳、水草のムジナモ発見。谷田部教授に教室への出入りを禁止される 自ら正式な学術論文で世界に報告したことで、世界的に名を知られるようになる。明治24年(1891)29歳、実家の整理のために佐川へ帰る 牧野は東京と郷里を往復しながら研究者の地位を確立していくが、同時に家産も傾いて行った。明治26年(1893)31歳、長女・園子が急死 帝国大学理科大学の助手となったが、その時には生家は完全に没落していた。 その後も各地で採集しながら植物の研究を続け、多数の標本や著作を残していく。 ただ、学歴の無いことと、大学所蔵文献の使用方法(研究に熱中するあまり、 参照用に借り出したままなかなか返却しないなど)による研究室の人々との軋轢もあり 厚遇はされず、さらに子供が次々に生まれ経済的にも苦しかった。明治33年(1900)38歳、「大日本植物志」刊行開始明治34年(1901)39歳 コヤスノキの記載をする明治40年(1907)45歳 飯沼慾斉原「増訂草木図説」第1巻を出版する明治42年(1909)47歳、横浜植物会を立ち上げ、観察会など指導する明治43年(1910)48歳、大学の助手を休職になる。明治44年(1911)49歳、東京植物同好会を作る明治45年(1912)50歳、東京帝国大学理科大学講師として復帰(昭和14年(1939)まで勤務)大正5年(1916)54歳、貧乏で絶体絶命になりそれが新聞記事に掲載。 神戸の南蛮美術の収集家として著名な池長孟(はじめ)が援助を申し出る 津村順天堂(現ツムラ)の協力を得て「植物研究雑誌」を創刊大正6年(1917)「植物研究雑誌」に「余が年少時代に抱懐した意見」を発表。池長植物研究所の開館準備。大正7年(1918)56歳、神戸牧野富太郎植物研究所が完成(昭和16年まで続く)大正10年(1921)59歳 高砂市石宝殿、新宮などでノジギク、コヤスノキの自生地に出かける。大正15年(1926)64歳、現在の東京都練馬区東大泉に自宅を建てる昭和2年(1927)65歳、東京大学から理学博士の学位を授与される。昭和3年(1928)66歳、妻の壽衛(すえ)が死去。 新種の笹に亡くなった妻の名をとって「スエコザサ」と名付けた。昭和9年(1934)72歳、「牧野植物学全集」刊行開始昭和12年(1937)75歳、「牧野植物学全集」によって朝日文化賞を受賞昭和14年(1939)77歳、東京帝国大学理科大学講師を辞任昭和15年(1940)78歳、「牧野日本植物図鑑」刊行昭和16年(1941)79歳、満州へサクラの調査に行く。池長孟より標本が返される。 安達氏より標品館が寄付される昭和20年(1945)83歳、山梨県北巨摩郡保坂村へ疎開昭和23年(1948)86歳、天皇陛下へご進講昭和24年(1949)87歳、病気で危篤となるが、奇跡的に復活する昭和26年(1951)89歳、第1回文化功労者に選ばれる。 文部省に「牧野富太郎博士標本保存委員会」ができる昭和29年(1954)92歳、風邪をこじらせ、床に臥せることが多くなる昭和32年(1957)94歳、家族に見守られて永眠 墓所は谷中霊園
昭和33年(1958) 高知県立牧野植物園が開園、東京都立大学牧野標本館が開館 東京都練馬区立牧野記念庭園が開園
平成20年(2008)東京都練馬区の名誉区民となる平成24年(2012)生誕150年令和4年(2022) 生誕160年
記憶に留めるため、何枚かの写真を添付しておきます。出典:2023年3月23日 NHKニュース 朝5時45分頃から5時49分
特記しない限り、上述の番組からの写真です。
上の写真は晩年、東京都練馬区大泉の自宅の書斎前にて調べものをする牧野富太郎博士。出典は下に本の表紙添付の「牧野富太郎の人生」(2023)のPage14
東京練馬区の自宅は大正15年(1926)に居を構え昭和32年(1957)94歳で亡くなるまで住んでいたところで昭和33年(1958)、住居跡を練馬区立牧野記念庭園として整備されています。書斎を再現するプロジェクトは牧野富太郎の曾孫で牧野記念庭園の学芸員の牧野一浡(かずおき)さん(下の写真)が中心となって進められています。
上の写真は復元作業の紹介牧野博士の自宅跡に整備された、東京 練馬区の牧野記念庭園では、博士が晩年を過ごした書斎を再現する計画が進められています。
上の写真は復元された書斎 本が山の様に積まれています。
牧野博士は生前、植物の研究書などおよそ4万5000冊を集め、蔵書の山に囲まれるようにして研究に没頭していた姿が知られています。
再現する書斎ではおよそ2000冊の蔵書などを再現する計画で、練馬区は、94歳で亡くなるまで尽きることのなかった研究への意欲を伝えたいとしています。
上の3枚の写真は昭和30年より以前の書斎の様子
尚、牧野富太郎博士の蔵書の価値は20億円と上述の本に書いてありました。
上の写真は牧野富太郎博士(93歳の頃)と曾孫の牧野一浡さん(昭和30年頃)この頃は病で臥せていた。
牧野記念庭園の学芸員で、博士のひ孫の牧野一浡(かずおき)さんは「牧野博士が生きていた頃は書斎は本や文房具でいっぱいでした。晩年まで研究への意欲が衰えず、最後まで仕事をしたかった人で、その雰囲気を再現したい」と話しています。
上の写真は復元された書斎
番組では牧野富太郎博士を支えた妻の寿衛(スエ子)についても紹介されていました。
牧野富太郎博士は借金してでも植物の研究のために必要なモノや情報を集めました。
牧野富太郎博士と寿衛の間には12人の子供がいたそうですがその子供達には父親は一生懸命働いている(研究に打ち込んでいる)と子供達に教えていた。
上の3枚に写真は練馬区立牧野記念庭園に建てられた牧野富太郎博士の銅像とその前の妻の名前をつけたスエコザサ及び富太郎が妻に感謝の気持ちを伝える詩上の写真は練馬区立牧野記念庭園 の展示を説明されている牧野一浡さんと説明を受けるNHKの清水若葉さん牧野一浡さんは牧野富太郎博士の植物デッサンについて上の写真のように評しておられます。
これから朝ドラ「らんまん」を熱心に視聴したいと思っています。あくまでもドラマなので史実を忠実に再現しているかどうかは別門題。
でも楽しみです。
最後に牧野富太郎博士の年譜を添付して筆を置きます
文久2年(1862)4月24日、土佐国佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)の裕福な商家に生まれた。幼名は成太郎。幼い頃、両親をなくし祖母に育てられた。幼少のころから植物に興味を示していた。明治5年(1872)10歳、寺小屋で習字を学ぶ明治6年(1873)11歳、明教館(めいこうかん)で西洋の学問に触れる明治7年(1874)12歳、佐川小学校に入学明治9年(1876)14歳、佐川小学校を自主退学 地元の学校の教師などから英語を学び、植物の採集、写生、観察など研究を続けながら、気ままな生活を送っていた。欧米の植物学も勉強し、当時の著名な学者の知己も得るようになる。明治12年(1879)17歳、高知市に出て五松学舎に学ぶ。コレラを罹患し帰郷明治13年(1880)18歳、永沼小一郎(地元の旧制中学教師)と知り合う明治14年(1881)19歳、第2回内国博覧会の見学のため東京へ。 書籍や顕微鏡が欲しくなるなど研究心が固まったのも東京行きの理由である。 田中芳男などと知り合う明治17年(1884)22歳、2回目の上京。東京大学植物学教室に出入りする。理科大学で谷田部良吉、松村任三と知り合う明治20年(1887)25歳、「植物学雑誌」の創刊に関わる。祖母の浪子が病死。神戸の裏山、布引の滝周辺で植物採集する。明治21年(1888)26歳、壽衛(すえ)と暮らし始める。 「日本植物志図篇」刊行開始。今で言う植物図鑑のはしりである。明治22年(1889)27歳、日本で初めて新種「ヤマトグサ」に学名をつける。 『植物学雑誌』に発表明治23年(1890)28歳、水草のムジナモ発見。谷田部教授に教室への出入りを禁止される 自ら正式な学術論文で世界に報告したことで、世界的に名を知られるようになる。明治24年(1891)29歳、実家の整理のために佐川へ帰る 牧野は東京と郷里を往復しながら研究者の地位を確立していくが、同時に家産も傾いて行った。明治26年(1893)31歳、長女・園子が急死 帝国大学理科大学の助手となったが、その時には生家は完全に没落していた。 その後も各地で採集しながら植物の研究を続け、多数の標本や著作を残していく。 ただ、学歴の無いことと、大学所蔵文献の使用方法(研究に熱中するあまり、 参照用に借り出したままなかなか返却しないなど)による研究室の人々との軋轢もあり 厚遇はされず、さらに子供が次々に生まれ経済的にも苦しかった。明治33年(1900)38歳、「大日本植物志」刊行開始明治34年(1901)39歳 コヤスノキの記載をする明治40年(1907)45歳 飯沼慾斉原「増訂草木図説」第1巻を出版する明治42年(1909)47歳、横浜植物会を立ち上げ、観察会など指導する明治43年(1910)48歳、大学の助手を休職になる。明治44年(1911)49歳、東京植物同好会を作る明治45年(1912)50歳、東京帝国大学理科大学講師として復帰(昭和14年(1939)まで勤務)大正5年(1916)54歳、貧乏で絶体絶命になりそれが新聞記事に掲載。 神戸の南蛮美術の収集家として著名な池長孟(はじめ)が援助を申し出る 津村順天堂(現ツムラ)の協力を得て「植物研究雑誌」を創刊大正6年(1917)「植物研究雑誌」に「余が年少時代に抱懐した意見」を発表。池長植物研究所の開館準備。大正7年(1918)56歳、神戸牧野富太郎植物研究所が完成(昭和16年まで続く)大正10年(1921)59歳 高砂市石宝殿、新宮などでノジギク、コヤスノキの自生地に出かける。大正15年(1926)64歳、現在の東京都練馬区東大泉に自宅を建てる昭和2年(1927)65歳、東京大学から理学博士の学位を授与される。昭和3年(1928)66歳、妻の壽衛(すえ)が死去。 新種の笹に亡くなった妻の名をとって「スエコザサ」と名付けた。昭和9年(1934)72歳、「牧野植物学全集」刊行開始昭和12年(1937)75歳、「牧野植物学全集」によって朝日文化賞を受賞昭和14年(1939)77歳、東京帝国大学理科大学講師を辞任昭和15年(1940)78歳、「牧野日本植物図鑑」刊行昭和16年(1941)79歳、満州へサクラの調査に行く。池長孟より標本が返される。 安達氏より標品館が寄付される昭和20年(1945)83歳、山梨県北巨摩郡保坂村へ疎開昭和23年(1948)86歳、天皇陛下へご進講昭和24年(1949)87歳、病気で危篤となるが、奇跡的に復活する昭和26年(1951)89歳、第1回文化功労者に選ばれる。 文部省に「牧野富太郎博士標本保存委員会」ができる昭和29年(1954)92歳、風邪をこじらせ、床に臥せることが多くなる昭和32年(1957)94歳、家族に見守られて永眠 墓所は谷中霊園
昭和33年(1958) 高知県立牧野植物園が開園、東京都立大学牧野標本館が開館 東京都練馬区立牧野記念庭園が開園
平成20年(2008)東京都練馬区の名誉区民となる平成24年(2012)生誕150年令和4年(2022) 生誕160年