神戸新聞の3面、「今日は何の日?」ひょうご版を毎日楽しみに読んでいます。7月6日に紹介されていたのは「明治20年(1887)、官営の兵庫造船所が川崎重工業創始者の川崎正蔵に正式に払い下げられることが決まった。価格は約19万円」との内容でした。
本ブログでは神戸における造船業の創成期の歴史を取り上げます。1968年の神戸港の開港直後から生田川尻や宇治川尻の海岸では小規模な造船業や鉄工業が外国人の手によって始まっていた。比較的規模の大きいものとしては、明治2年(1869)にアメリカ人のミュアヘッドがいち早く、東川崎町で小蒸気船の修理を行うバルカン鉄工所を開設した、明治11年(1878)にはイギリス人のキルビーが小野浜にキルビー商会小野浜造船所を開設しています。日本人の間でも、加賀藩士が石川県の七尾にあった造船工場の機械設備を東出町に移設して明治3年(1870)に兵庫製鉄所を開設した。この兵庫鉄工所は「加州製鉄所」と呼ばれていた。明治4年(1871)には造船業を振興するため、明治政府の工部省も東出町に官営兵庫製作所を開設した。しかし、経営が思わしくなかった加州製鉄所、バルカン鉄工所は官営兵庫製作所に買収され明治18年(1885)には名前も兵庫造船所に変わった。この兵庫造船所の払い下げを受けたのが、川崎兵庫造船所を明治14年(1881)に開設していた川崎正蔵である。(下の写真が川崎正蔵の肖像写真)
川崎正蔵はそれより前の明治11年(1878)、既に東京・築地の隅田川沿いに川崎築地造船所を開設して西洋型帆船の建造を始めていたが、築地造船所に拡張の余地がないため、神戸に造船所を集約させたいと考えた。そこで目をつけたのが兵庫造船所で、明治19年(1886)4月に政府から貸し下げを受け、ここに川崎兵庫造船所の設備を移して社名も川崎造船所と改称した。これが後の川崎重工業神戸工場の始まりになります。明治19年(1886)9月には東京の川崎築地造船所の設備を神戸に移し、上述のように明治20年(1887)7月6日に官営兵庫造船所は正式に川崎正蔵に払い下げられた。川崎造船所で最初に進水したのは官営兵庫造船所時代から建造していた大阪商船の貨客船「吉野川丸(400総トン)である。川崎造船所は明治29年(1896)10月、個人経営から株式会社に組織を改めたのを機に時の総理大臣松方正義の三男、松方幸次郎が社長に就任した。
その後、明治38年(1905)三菱合資会社が和田岬に神戸三菱造船所を開設。現在の三菱重工業神戸造船所に繋がっていきます。
上の写真は大正元年(1912)から解体された昭和37年(1962)まで神戸港のシンボル的存在であった川崎造船(現川崎重工業)のガントリークレーン昭和36年(1961)頃の写真出典:市民のグラフ こうべ No.171(1987.1)Page12全長303m、幅45m、高さ50mという巨大クレーンは大正元年(1912)に完成、大正2年(1913)に「榛名」が進水、以降戦艦「伊勢」や航空母艦「加賀」など軍用船から大型商船まで数多くの船舶の建造に使用されてきました。
本ブログでは神戸における造船業の創成期の歴史を取り上げます。1968年の神戸港の開港直後から生田川尻や宇治川尻の海岸では小規模な造船業や鉄工業が外国人の手によって始まっていた。比較的規模の大きいものとしては、明治2年(1869)にアメリカ人のミュアヘッドがいち早く、東川崎町で小蒸気船の修理を行うバルカン鉄工所を開設した、明治11年(1878)にはイギリス人のキルビーが小野浜にキルビー商会小野浜造船所を開設しています。日本人の間でも、加賀藩士が石川県の七尾にあった造船工場の機械設備を東出町に移設して明治3年(1870)に兵庫製鉄所を開設した。この兵庫鉄工所は「加州製鉄所」と呼ばれていた。明治4年(1871)には造船業を振興するため、明治政府の工部省も東出町に官営兵庫製作所を開設した。しかし、経営が思わしくなかった加州製鉄所、バルカン鉄工所は官営兵庫製作所に買収され明治18年(1885)には名前も兵庫造船所に変わった。この兵庫造船所の払い下げを受けたのが、川崎兵庫造船所を明治14年(1881)に開設していた川崎正蔵である。(下の写真が川崎正蔵の肖像写真)
川崎正蔵はそれより前の明治11年(1878)、既に東京・築地の隅田川沿いに川崎築地造船所を開設して西洋型帆船の建造を始めていたが、築地造船所に拡張の余地がないため、神戸に造船所を集約させたいと考えた。そこで目をつけたのが兵庫造船所で、明治19年(1886)4月に政府から貸し下げを受け、ここに川崎兵庫造船所の設備を移して社名も川崎造船所と改称した。これが後の川崎重工業神戸工場の始まりになります。明治19年(1886)9月には東京の川崎築地造船所の設備を神戸に移し、上述のように明治20年(1887)7月6日に官営兵庫造船所は正式に川崎正蔵に払い下げられた。川崎造船所で最初に進水したのは官営兵庫造船所時代から建造していた大阪商船の貨客船「吉野川丸(400総トン)である。川崎造船所は明治29年(1896)10月、個人経営から株式会社に組織を改めたのを機に時の総理大臣松方正義の三男、松方幸次郎が社長に就任した。
その後、明治38年(1905)三菱合資会社が和田岬に神戸三菱造船所を開設。現在の三菱重工業神戸造船所に繋がっていきます。
上の写真は大正元年(1912)から解体された昭和37年(1962)まで神戸港のシンボル的存在であった川崎造船(現川崎重工業)のガントリークレーン昭和36年(1961)頃の写真出典:市民のグラフ こうべ No.171(1987.1)Page12全長303m、幅45m、高さ50mという巨大クレーンは大正元年(1912)に完成、大正2年(1913)に「榛名」が進水、以降戦艦「伊勢」や航空母艦「加賀」など軍用船から大型商船まで数多くの船舶の建造に使用されてきました。