現在、神戸市立図書館から借りている本、高田静夫 著「兵庫津風土記」(1994)の
Page122に「兵庫津の教育・明親館」という記述があります。
そこでこの資料をベースに書いていきます。江戸時代末期に藩校明親館が柳原天神社付近を中心に発祥し神戸最古の小学校である
明親小学校につながっていきます。
明親館(めいしんかん)は明治元年(1868)6月13日に生徒30-40人集めて開校した 郷学の学校で開校時は兵庫学校*1と称していたがのちに明親館と伊藤博文により命名された。明治5年(1872)の学制発布で、兵庫第6小学校として明治5年10月13日にスタートを切りましたその後、明治6年(1873)8月明親小学校と改称されました。 *1 慶応3年(1867)6月13日、切戸町の函館物産会所の建物を校舎として、
「兵庫学校」と言う名前で開校。明治6年(1873)には経営不振、
新学制公布(1872年)があったことなどにより閉校。 明親小学校は神戸で1番古い小学校として知られています。明親小学校は神戸市兵庫区須佐野通4丁目1-19に現在も存在しています。
以下、前述の記述と重なる部分もありますが話を続けます。 兵庫出在家の豪商神田(岩間家)兵右衛門が主導して安田総兵衛、北風惣右衛門の連名で兵庫津の住民子弟に教育をしたいと裁判所(県庁)に願いが出された。すぐ許可されて、切戸町の旧幕府・函館物産会所の建物を使い、姫路藩の秀才儒者の菅野狷介(けんすけ)*2を教頭に招致し明治元年(1868)6月13日に生徒30-40人集めて開校。*2 菅野狷介は、文政3年(1820)2月6日菅野真斎の3男として高砂の生まれ。 父真斎は、通称を武助といい、幼少より学問に秀で安芸国福山に赴き菅茶山に学び、頼春水(頼山陽の父)と交友を持ちます。さらに京都に出て医学を学んでから高砂に帰り、申義堂の教授となりました。文政10年(1827)には、姫路藩家老河合寸翁に招かれ仁寿山校の教授に就任します。頼山陽が仁寿山を訪ねるきっかけは、真斎との交友があったからです。後に姫路藩尊攘派のリーダーとなる河合惣兵衛は、この頃仁寿山校で真斎に学んだ志士です。狷介は、父に従い仁寿山校の傍らに住み学を究め、京都・摂津に師を求め医学を学びますが、次兄が早逝したため菅野家の分家の祖となりました。 菅野狷介(白華)については下記サイトが詳しい。 26.菅野狷介と安政の大獄 | 播磨歴史ネットの会 (xdomain.jp) 25.菅野狷介の北方探索(2) | 播磨歴史ネットの会 (xdomain.jp) 9-(2)-②-b菅野潔(白華) | teizan-unga (waterways-japan.net)
高砂市十輪寺の墓地には菅野白華と菅野家の墓碑があり、下記ブログで紹介しています。 菅野白華と菅野家の墓碑 in 高砂市十輪寺 on 2018-2-17 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp) 上記ブログで菅野白華について次のように紹介しています。菅野白華は文政3年(1820)2月6日、菅野松塢(武助)の三男として高砂町今津町で生れた。
文政10年(1827)姫路仁寿山黌に学び、仁寿山黌の人々は彼を「字引」と称したという。
姫路藩は、白華が21歳の時にを江戸昌平坂学問所(昌平黌)に入らせた。
31歳で姫路藩の江戸藩邸の教官を務めます。
朱子学者であったが海防問題などにも関心を持ち有志の若者が集まったとのこと。
37歳で奥羽・蝦夷地を巡覧しのちに「北遊乗」を著しています。
安政の大獄(1858-1859)で投獄されたが、出獄後姫路藩の好古堂の副督学をつとめ
明治維新後は兵庫県の明親館の教頭を勤めた後、兵庫で病死しました。
帰郷した時に申義堂で教壇に立った可能性があります。
同年9月、裁判所(県庁)が坂本村の新庁舎に移ったのでその跡地へ移転して「明親館」と名付けられた。明治5年(1872)3月、兵庫町会所(岡方惣会所)に移転。同年10月、県立神戸洋学校(神戸洋学伝習所)を併合。和・洋・漢の学問が学べる学校となった。しかし、明治6年(1873)6月24日には経営不振、新学制公布(1872年)等により閉校。明親館の教育内容は3クラスに分けて下等は素読、輪読、書法、中等以上では詩文、暗記、外人も雇って英語の教育も取り入られていた。月1回は、講日として官吏や一般聴講を許し道徳教育も行われた。先生には上述の教頭・菅野狷介の他に北仲町の儒学者「広瀬旭荘」や一般医師が登用された。神田兵右衛門は明親館の運営に大きく関わり資金、資材の提供をしています。小学校が設立される前の兵庫における教育に果たした役割は一定のものがあったとされる。神戸市兵庫区に明親小学校、また町名「明親」として名を残している。兵庫岡方文書の中に、有栖川宮熾仁親王書「明親館」扁額が残っている。ここで学んだ者に卜部兵吉等がいる。
明治6年(1873)10月、明親館に因んだ名の明親小学校が開校された。
以下、明親小学校の歴史について記載しました。1871年(明治4年)11月20日に兵庫県令(現在の兵庫県知事)に就任し、
1876年(明治9年)9月3日まで兵庫県令を務めた神田孝平も小学校の創設に
積極的に関与し功績が大であった。その他、明親小学校の設立に尽力した人物として神田兵右衛門と北風正造らがいる。
明治8年に和田小学校と広明小学校を合併、明治20年には弁天兵庫小学校の
明親分教場と改称。
明治33年9月 明親小学校として独立
明治37年4月 明親尋常高等小学校に改称
明治37年7月 道場尋常小学校開校
明治42年4月 明親尋常小学校に改称
大正10年4月 須佐尋常高等小学校開校
大正12年4月 再び明親尋常高等小学校に改称
昭和16年4月 明親国民学校(高等科)と改称 昭和22年3月31日廃校
昭和16年4月 上記の道場尋常小学校(後に国民学校)と須佐尋常高等小学校が
合併して道場須佐小学校として発足
昭和23年4月 明親小学校と改称
明親小学校の沿革については明親小学校のHPに詳しく記載されています。下記リンク:神戸市立明親小学校-沿革 (kobe-c.ed.jp)
因みに神戸で2番目に古い学校は現在の雲中小学校です。
雲中小学校は明治6年(1873)4月の創立です。
明親館に関する写真があるといいのですが適当なものが見つかりません。そこで、神戸市須磨区にある綱敷天満宮の境内の明親尋常小学校にあった忠孝碑の写真を紹介することにしました。 撮影:2023-2-28横に忠孝碑に就てという説明書きがありましたので引用させていただきます。
「この石碑は元神戸市立明親尋常小学校校庭に建設された
建設年月日 大正13年(1924)1月
文字揮毫者 文学博士 高田忠間 氏
当時学校長 中安儀太郎 氏
碑石寄贈者 川瀬ウメ刀自
昭和20年(1945)3月戦災のため同校罹災し校舎移転終戦等
事情一変のため当社(綱敷神社)に於て保存建設することとなった
昭和45年(1970)10月30日 宮司 久野木 理
(教育勅語発布80周年記念の日)」
また、Googleストリートビューで最近の明神小学校の写真を添付して筆を置きます。
Page122に「兵庫津の教育・明親館」という記述があります。
そこでこの資料をベースに書いていきます。江戸時代末期に藩校明親館が柳原天神社付近を中心に発祥し神戸最古の小学校である
明親小学校につながっていきます。
明親館(めいしんかん)は明治元年(1868)6月13日に生徒30-40人集めて開校した 郷学の学校で開校時は兵庫学校*1と称していたがのちに明親館と伊藤博文により命名された。明治5年(1872)の学制発布で、兵庫第6小学校として明治5年10月13日にスタートを切りましたその後、明治6年(1873)8月明親小学校と改称されました。 *1 慶応3年(1867)6月13日、切戸町の函館物産会所の建物を校舎として、
「兵庫学校」と言う名前で開校。明治6年(1873)には経営不振、
新学制公布(1872年)があったことなどにより閉校。 明親小学校は神戸で1番古い小学校として知られています。明親小学校は神戸市兵庫区須佐野通4丁目1-19に現在も存在しています。
以下、前述の記述と重なる部分もありますが話を続けます。 兵庫出在家の豪商神田(岩間家)兵右衛門が主導して安田総兵衛、北風惣右衛門の連名で兵庫津の住民子弟に教育をしたいと裁判所(県庁)に願いが出された。すぐ許可されて、切戸町の旧幕府・函館物産会所の建物を使い、姫路藩の秀才儒者の菅野狷介(けんすけ)*2を教頭に招致し明治元年(1868)6月13日に生徒30-40人集めて開校。*2 菅野狷介は、文政3年(1820)2月6日菅野真斎の3男として高砂の生まれ。 父真斎は、通称を武助といい、幼少より学問に秀で安芸国福山に赴き菅茶山に学び、頼春水(頼山陽の父)と交友を持ちます。さらに京都に出て医学を学んでから高砂に帰り、申義堂の教授となりました。文政10年(1827)には、姫路藩家老河合寸翁に招かれ仁寿山校の教授に就任します。頼山陽が仁寿山を訪ねるきっかけは、真斎との交友があったからです。後に姫路藩尊攘派のリーダーとなる河合惣兵衛は、この頃仁寿山校で真斎に学んだ志士です。狷介は、父に従い仁寿山校の傍らに住み学を究め、京都・摂津に師を求め医学を学びますが、次兄が早逝したため菅野家の分家の祖となりました。 菅野狷介(白華)については下記サイトが詳しい。 26.菅野狷介と安政の大獄 | 播磨歴史ネットの会 (xdomain.jp) 25.菅野狷介の北方探索(2) | 播磨歴史ネットの会 (xdomain.jp) 9-(2)-②-b菅野潔(白華) | teizan-unga (waterways-japan.net)
高砂市十輪寺の墓地には菅野白華と菅野家の墓碑があり、下記ブログで紹介しています。 菅野白華と菅野家の墓碑 in 高砂市十輪寺 on 2018-2-17 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp) 上記ブログで菅野白華について次のように紹介しています。菅野白華は文政3年(1820)2月6日、菅野松塢(武助)の三男として高砂町今津町で生れた。
文政10年(1827)姫路仁寿山黌に学び、仁寿山黌の人々は彼を「字引」と称したという。
姫路藩は、白華が21歳の時にを江戸昌平坂学問所(昌平黌)に入らせた。
31歳で姫路藩の江戸藩邸の教官を務めます。
朱子学者であったが海防問題などにも関心を持ち有志の若者が集まったとのこと。
37歳で奥羽・蝦夷地を巡覧しのちに「北遊乗」を著しています。
安政の大獄(1858-1859)で投獄されたが、出獄後姫路藩の好古堂の副督学をつとめ
明治維新後は兵庫県の明親館の教頭を勤めた後、兵庫で病死しました。
帰郷した時に申義堂で教壇に立った可能性があります。
同年9月、裁判所(県庁)が坂本村の新庁舎に移ったのでその跡地へ移転して「明親館」と名付けられた。明治5年(1872)3月、兵庫町会所(岡方惣会所)に移転。同年10月、県立神戸洋学校(神戸洋学伝習所)を併合。和・洋・漢の学問が学べる学校となった。しかし、明治6年(1873)6月24日には経営不振、新学制公布(1872年)等により閉校。明親館の教育内容は3クラスに分けて下等は素読、輪読、書法、中等以上では詩文、暗記、外人も雇って英語の教育も取り入られていた。月1回は、講日として官吏や一般聴講を許し道徳教育も行われた。先生には上述の教頭・菅野狷介の他に北仲町の儒学者「広瀬旭荘」や一般医師が登用された。神田兵右衛門は明親館の運営に大きく関わり資金、資材の提供をしています。小学校が設立される前の兵庫における教育に果たした役割は一定のものがあったとされる。神戸市兵庫区に明親小学校、また町名「明親」として名を残している。兵庫岡方文書の中に、有栖川宮熾仁親王書「明親館」扁額が残っている。ここで学んだ者に卜部兵吉等がいる。
明治6年(1873)10月、明親館に因んだ名の明親小学校が開校された。
以下、明親小学校の歴史について記載しました。1871年(明治4年)11月20日に兵庫県令(現在の兵庫県知事)に就任し、
1876年(明治9年)9月3日まで兵庫県令を務めた神田孝平も小学校の創設に
積極的に関与し功績が大であった。その他、明親小学校の設立に尽力した人物として神田兵右衛門と北風正造らがいる。
明治8年に和田小学校と広明小学校を合併、明治20年には弁天兵庫小学校の
明親分教場と改称。
明治33年9月 明親小学校として独立
明治37年4月 明親尋常高等小学校に改称
明治37年7月 道場尋常小学校開校
明治42年4月 明親尋常小学校に改称
大正10年4月 須佐尋常高等小学校開校
大正12年4月 再び明親尋常高等小学校に改称
昭和16年4月 明親国民学校(高等科)と改称 昭和22年3月31日廃校
昭和16年4月 上記の道場尋常小学校(後に国民学校)と須佐尋常高等小学校が
合併して道場須佐小学校として発足
昭和23年4月 明親小学校と改称
明親小学校の沿革については明親小学校のHPに詳しく記載されています。下記リンク:神戸市立明親小学校-沿革 (kobe-c.ed.jp)
因みに神戸で2番目に古い学校は現在の雲中小学校です。
雲中小学校は明治6年(1873)4月の創立です。
明親館に関する写真があるといいのですが適当なものが見つかりません。そこで、神戸市須磨区にある綱敷天満宮の境内の明親尋常小学校にあった忠孝碑の写真を紹介することにしました。 撮影:2023-2-28横に忠孝碑に就てという説明書きがありましたので引用させていただきます。
「この石碑は元神戸市立明親尋常小学校校庭に建設された
建設年月日 大正13年(1924)1月
文字揮毫者 文学博士 高田忠間 氏
当時学校長 中安儀太郎 氏
碑石寄贈者 川瀬ウメ刀自
昭和20年(1945)3月戦災のため同校罹災し校舎移転終戦等
事情一変のため当社(綱敷神社)に於て保存建設することとなった
昭和45年(1970)10月30日 宮司 久野木 理
(教育勅語発布80周年記念の日)」
また、Googleストリートビューで最近の明神小学校の写真を添付して筆を置きます。