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正岡子規と神戸市須磨

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正岡子規(1867~1902)と神戸市須磨区の関係は明治28年(1889)4月
正岡子規が新聞「日本」の記者時代日清戦争の従軍記者として中国遼東半島へ
行くがその帰途の5月17日に御用船・佐渡国丸の船上で吐血5月22日の
午後、船は神戸市和田岬に着き検疫所を経て翌日の夕方、当時下山手8丁目
にあった県立神戸病院に入院、7月23日までの2か月を病院の2階2号室
で過ごす。7月23日になって吐血も収まり須磨海浜保養地に転地し須磨浦療病院
で治療を続け8月20日には病状も良くなり、郷里松山に帰り、当時松山中学
に赴任していた夏目漱石の下宿(愚陀仏庵)で過ごす。
すなわち、正岡子規が神戸に滞在した期間は約3か月である。

3か月の逗留期間に詠んだ正岡子規の俳句を紹介すると共に現在までに建立
された正岡子規の句碑を写真で紹介していきます。

本論に入る前にWikipediaより正岡子規の略歴を引用紹介します。(一部加筆)

※日付は1872年までは旧暦
1867年(慶応3年)9月17日:伊予国温泉郡藤原新町(現・松山市花園町)
              に松山藩士・正岡常尚の長男として生まれる
              本名常規,幼名処之助,のちに升(のぼる)
1868年(明治元年):湊町新町に転居(現湊町4丁目1番地)
1872年(明治5年)4月:父・常尚が死去
1873年(明治6年):寺子屋式の末広学校に通う
1875年(明治8年) 1月:勝山学校(現・松山市立番町小)へ転校
          4月:祖父観山死去。土屋久明に漢学を学ぶ
1878年(明治11年):初めて漢詩を作り久明の添削を受ける
1879年(明治12年)12月:勝山学校卒業
1880年(明治13年)3月:松山中学(現・松山東高)入学
         三並良,竹村鍛らと「同親会」を結成。
         河東静渓(竹村鍛・河東碧梧桐の父)に指導を受ける。
1883年(明治16年) 5月:大学予備門受験のために松山中学を退学
          6月:東京へ出る
          10月:共立学校(現・開成高)入学。
1884年(明治17年)9月:東京大学予備門(のち第一高等中学校)へ入学。
            俳句を作り始める
            この年から3年間,ベースボールに熱中
1888年(明治21年) 7月:第一高等中学校予科卒業
          9月:本科へ進級 常磐会寄宿舎に入る。
1889年(明治22年) 夏目金之助(漱石)と落語を介して交遊を始める。
     4月3日:常磐会の友人と2人で、菊池謙二郎の実家のある水戸まで、
         徒歩旅行を行う
     5月9日:喀血。初めて「子規」と号す。
1890年(明治23年) 7月:第一高等中学校本科卒業
          9月:東京帝国大学文科大学哲学科入学
1891年(明治24年)1月:国文科に転科
1892年(明治25年) 10月:退学
          12月:日本新聞社入社
1895年(明治28年)4月:日清戦争に記者として従軍、その帰路に喀血
1896年(明治29年)1月:子規庵で句会
1898年(明治31年)3月:子規庵で歌会
1900年(明治33年)8月:大量の喀血
1902年(明治35年)9月19日:死去。享年34。東京都北区田端の大龍寺に眠る。

辞世の句「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」
「をとゝひのへちまの水も取らざりき」より、子規の忌日9月19日を
「糸瓜忌」といい、雅号の一つから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。

神戸市須磨での生活について(正岡子規 28-29歳)
 (1)県立 神戸病院時代

 (2)須磨浦療病院 須磨海浜保養院時代

上記の2つに分けて記述する。

(1)県立 神戸病院時代(明治28年5月23日~7月23日)

   正岡子規が入院した頃は病状も重篤でしばらくは俳句を詠む状態では
   なかった。入院後4~5日して高浜虚子(当時21歳)や川東碧悟桐(22歳)
   が京都から駆けつけ、さらにはご母堂も東京から駆けつけ正岡子規の看護
   にあたった。

   毎朝のように高浜虚子が諏訪山付近の畑からのイチゴを購入して子規を
   喜ばせたエピソードが残っている。

   病状が落ち着いてからの作句と思われるが次の句を残している。

   ほととぎす山手通りと覚えたり

   露あかしいちご畑の山かつら

   もりあげて病うれしき苺かな

(2)須磨浦療病院 須磨海浜保養院時代(明治28年7月23日~8月20日)
   
   須磨浦療病院は明治22年8月12日、鶴崎平三郎氏が創始した日本発の
   サナトリウムである。現在も須磨浦病院と名前が変わったが鶴崎氏の
   子孫が経営されています。須磨海浜保養院は須磨浦公園「みどりの塔」
   付近にあった施設で須磨浦療病院への通院患者が多く宿泊していた。

   正岡子規の病状もある程度落ち着いており須磨の地に移ることを楽しみ
   にしていたようで次の句が残されている。

   うれしさに 涼しさに須磨の恋しさに


   ここでこの時期に詠まれた正岡子規の句で句碑になっているものを写真
   と共に紹介します。






上の3枚の写真は須磨浦公園にある正岡子規と高浜虚子の句碑

ことづてよ 須磨の浦わに 昼寝すと  子規
 子規50回忌
月を思ひ 人を思ひて 須磨にあり  虚子

上記の句で子規の句は高浜虚子の東帰にことづてとして詠んだもの
虚子の句はホトトギス誌の正岡子規の50年忌記念号からとったもので
県会議員の酒井一雄氏が私費を投じ昭和28年(1953)4月に建立されたものです。
碑の文字は夫々直筆から採ったもので五十嵐播水の協力を得て句碑は完成しました。

 はじめは須磨海浜保養院即時の正岡子規の句は
「夕涼み仲居に文字を習はする 」を選んでいたが、「仲居」の文字があっては
ということから急遽変更となり上記の句になったエピソードも残っています。 


上の写真は須磨寺の仁王門を入った左手にある正岡子規の句碑

 「暁や 白帆過ぎ行く 蚊帳の外」と書かれています。
この石碑は昭和9年(1934)9月 正岡子規33年忌に弟子の青木月斗が建立
したものです。 

 
上の写真は現光寺にある正岡子規の句碑

「読みさして月が出るなり須磨の巻」

須磨時代に詠んだ正岡子規の句を列挙しておきます。

「人も無し 木陰の椅子の 散松葉」

「すずしさや 須磨の夕波 横うねり」

「夏山の 病院高し 松の中」

「涼しさを 足に砕けて 須磨の波」

「夏の日の あつもり塚に 涼みゐて」

「病気なおさねば去なじと思う」

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