有馬温泉の散策記の第5弾として温泉寺について記していきます。
訪問日:2018年9月25日
温泉寺でもデジカメのバッテリーがあがる寸前であまり多くの写真を撮れていません。
過去の散策記
第1回 有馬温泉散策記 on 2018-9-25 その1 落葉山 妙見寺
第2回 有馬温泉散策記 on 2018-9-25 その2 袂石(たもといし)
第3回 有馬温泉散策記 on 2018-9-25 その3 善福寺
第4回 有馬温泉散策記 on 2018-9-25 その4 ゆけむり広場の秀吉像とねね橋のねね像
温泉寺の基本情報
住所:神戸市北区有馬町1643 TEL:078-904-0650
宗派:黄檗宗
当初は法相宗で、建久元年(1190)仁西(にんさい)上人が堂塔を再建し
天台宗に、その後真言宗にも転じ、元禄のころ黄檗宗に改宗した。
山号:有馬山 御本尊:薬師如来
創建:(伝)神亀元年(724年) By行基菩薩 中興:仁西上人
年間イベント:1月2日 - 入初式 、11月14日 - 御祖師祭(みそしまつり)
本堂(薬師堂)
2018-9-25の訪問で本堂(薬師堂)全体が移った写真が撮れなかったので
2012年11月13日に撮った写真を添付しておきます。
下の写真は温泉寺本堂を正面から撮ったものです。撮影:2012-11-13
本堂は、江戸時代中期 元禄8年(1695)の建立だそうです。
薬師如来像
上の写真は御本尊の薬師如来と両脇侍(日光菩薩・月光菩薩)像
波夷羅大将立像
上の写真は温泉寺(清涼院)の木造波夷羅大将立像 大正3年(1914)4月17日指定
江戸時代に製作 木造 彩色 玉眼 像高102.5cm
出典:神戸市立博物館編 第3回特別展 神戸の文化財(1983) Page60
石造五輪塔
上の写真は温泉寺本堂とその前にある石造五輪塔です。
向かって右側は平清盛の五輪塔(温泉寺東塔=左塔)、
左側の五輪塔は慈心坊尊恵の塔(温泉寺西塔=右塔)
上の写真は現地の説明板です。
温泉寺石造五輪塔についての説明書き(田辺真人先生語りによる)を引用させて
いただきます。
「この二基の五輪塔は鎌倉中・後期作の石造文化財だが、元禄14年(1701)の
摂陽群談では平相国平清盛塔と慈心坊尊恵塔だと記し、ともに平清盛が有馬温泉に
滞在した時に建立したものだと説明している。平家物語、古今著聞集、温泉寺縁起
などによると、慈心坊尊恵は承安年間(1171~75)に清澄寺(現、宝塚市)に
住んでいた時、幾度も閻魔大王に招かれてあの世に赴いたと伝えられている。
閻魔の庁で大輪田泊での清盛主催の千僧供養が話題になった時、閻魔大王は清盛を
平安中期の良源(元三大師)の生まれ変わりだと尊恵に教えた。尊恵はそのことを
清盛に話し、清盛が喜んだこと。また閻魔は尊恵に法華経を五重の箱に入れて
閻魔王府の東門に当たる聖地有馬の温泉山に納めるように伝えたことなど、尊恵には
有馬や清盛に関わる冥府訪問の物語が伝わっている。
歴史的には、平安末期の土砂崩れで有馬温泉は中断し、清盛に関して入湯の記録や
伝説はない。兵庫の清盛塚十三重の石塔建立のように、清盛没後およそ百年のころに
供養のために建てられた温泉寺の五輪塔に、尊恵の有馬の伝説が結びついて、江戸前期
に摂陽群談という解説が信じられていたのであろう」
池之坊満月城遭難者慰霊塔
上の写真は池之坊満月城遭難者慰霊塔です。
1968年(昭和43年)11月2日、午前2時40分に起きた池之坊満月城火災は
焼失面積6,630平方メートル。246人の宿泊客のうち30人が死亡、
44人が負傷する大惨事であった。
犠牲者の多くは、富山から来ていた会社従業員達だったという。新婚旅行中の
2組の夫婦も命を落としたそうである。ご冥福を祈ります。
池之坊満月城
上の2枚の写真は池之坊満月城の近景と遠景
石仏
上の写真は本堂前の石段の脇にある石仏
古写真
上の写真は明治中期に撮影された温泉寺も含む有馬温泉
出典:資料館「御祖師庵」の展示
行基と温泉寺
上の写真は温泉寺の開基である行基と薬師如来との伝説です。
出典:資料館「御祖師庵」の展示
有馬温泉の歴史は古く、神代に大己貴命(おおなむちのみこと)と
少彦名命(すくなひこなのみこと)の2つの神様が傷ついた鳥が湧き出した
泉で傷を癒しているのを見つけて温泉を発見したのが始りと伝えられています。
日本書紀の中にも舒明天皇が631年に孝徳天皇が647年に行幸したとの
記述があり日本最古の温泉と考えられています。
行基(668-749)は湯山=有馬温泉に来て薬師如来を安置して温泉寺を
建立し、有馬温泉の発展に寄与した。
温泉寺の薬師如来は草津温泉の古刹光泉寺、と(山中温泉の薬師院温泉寺
あるいは城崎温泉の温泉寺、あるいは道後温泉の石手寺の中の一つ)
と共に日本の三大薬師の一つとされています。
また鎌倉時代、仁西上人は12の宿坊を建てさらにかの豊臣秀吉は湯山御殿
を建てて江戸時代以降の有馬温泉の繁栄の基礎を固めた人物であります。
このことから行基、仁西上人、豊臣秀吉のことを有馬の三恩人と呼んでいます。
上の写真は行基像
訪問日:2018年9月25日
温泉寺でもデジカメのバッテリーがあがる寸前であまり多くの写真を撮れていません。
過去の散策記
第1回 有馬温泉散策記 on 2018-9-25 その1 落葉山 妙見寺
第2回 有馬温泉散策記 on 2018-9-25 その2 袂石(たもといし)
第3回 有馬温泉散策記 on 2018-9-25 その3 善福寺
第4回 有馬温泉散策記 on 2018-9-25 その4 ゆけむり広場の秀吉像とねね橋のねね像
温泉寺の基本情報
住所:神戸市北区有馬町1643 TEL:078-904-0650
宗派:黄檗宗
当初は法相宗で、建久元年(1190)仁西(にんさい)上人が堂塔を再建し
天台宗に、その後真言宗にも転じ、元禄のころ黄檗宗に改宗した。
山号:有馬山 御本尊:薬師如来
創建:(伝)神亀元年(724年) By行基菩薩 中興:仁西上人
年間イベント:1月2日 - 入初式 、11月14日 - 御祖師祭(みそしまつり)
本堂(薬師堂)
2018-9-25の訪問で本堂(薬師堂)全体が移った写真が撮れなかったので
2012年11月13日に撮った写真を添付しておきます。
下の写真は温泉寺本堂を正面から撮ったものです。撮影:2012-11-13
本堂は、江戸時代中期 元禄8年(1695)の建立だそうです。
薬師如来像
上の写真は御本尊の薬師如来と両脇侍(日光菩薩・月光菩薩)像
波夷羅大将立像
上の写真は温泉寺(清涼院)の木造波夷羅大将立像 大正3年(1914)4月17日指定
江戸時代に製作 木造 彩色 玉眼 像高102.5cm
出典:神戸市立博物館編 第3回特別展 神戸の文化財(1983) Page60
石造五輪塔
上の写真は温泉寺本堂とその前にある石造五輪塔です。
向かって右側は平清盛の五輪塔(温泉寺東塔=左塔)、
左側の五輪塔は慈心坊尊恵の塔(温泉寺西塔=右塔)
上の写真は現地の説明板です。
温泉寺石造五輪塔についての説明書き(田辺真人先生語りによる)を引用させて
いただきます。
「この二基の五輪塔は鎌倉中・後期作の石造文化財だが、元禄14年(1701)の
摂陽群談では平相国平清盛塔と慈心坊尊恵塔だと記し、ともに平清盛が有馬温泉に
滞在した時に建立したものだと説明している。平家物語、古今著聞集、温泉寺縁起
などによると、慈心坊尊恵は承安年間(1171~75)に清澄寺(現、宝塚市)に
住んでいた時、幾度も閻魔大王に招かれてあの世に赴いたと伝えられている。
閻魔の庁で大輪田泊での清盛主催の千僧供養が話題になった時、閻魔大王は清盛を
平安中期の良源(元三大師)の生まれ変わりだと尊恵に教えた。尊恵はそのことを
清盛に話し、清盛が喜んだこと。また閻魔は尊恵に法華経を五重の箱に入れて
閻魔王府の東門に当たる聖地有馬の温泉山に納めるように伝えたことなど、尊恵には
有馬や清盛に関わる冥府訪問の物語が伝わっている。
歴史的には、平安末期の土砂崩れで有馬温泉は中断し、清盛に関して入湯の記録や
伝説はない。兵庫の清盛塚十三重の石塔建立のように、清盛没後およそ百年のころに
供養のために建てられた温泉寺の五輪塔に、尊恵の有馬の伝説が結びついて、江戸前期
に摂陽群談という解説が信じられていたのであろう」
池之坊満月城遭難者慰霊塔
上の写真は池之坊満月城遭難者慰霊塔です。
1968年(昭和43年)11月2日、午前2時40分に起きた池之坊満月城火災は
焼失面積6,630平方メートル。246人の宿泊客のうち30人が死亡、
44人が負傷する大惨事であった。
犠牲者の多くは、富山から来ていた会社従業員達だったという。新婚旅行中の
2組の夫婦も命を落としたそうである。ご冥福を祈ります。
池之坊満月城
上の2枚の写真は池之坊満月城の近景と遠景
石仏
上の写真は本堂前の石段の脇にある石仏
古写真
上の写真は明治中期に撮影された温泉寺も含む有馬温泉
出典:資料館「御祖師庵」の展示
行基と温泉寺
上の写真は温泉寺の開基である行基と薬師如来との伝説です。
出典:資料館「御祖師庵」の展示
有馬温泉の歴史は古く、神代に大己貴命(おおなむちのみこと)と
少彦名命(すくなひこなのみこと)の2つの神様が傷ついた鳥が湧き出した
泉で傷を癒しているのを見つけて温泉を発見したのが始りと伝えられています。
日本書紀の中にも舒明天皇が631年に孝徳天皇が647年に行幸したとの
記述があり日本最古の温泉と考えられています。
行基(668-749)は湯山=有馬温泉に来て薬師如来を安置して温泉寺を
建立し、有馬温泉の発展に寄与した。
温泉寺の薬師如来は草津温泉の古刹光泉寺、と(山中温泉の薬師院温泉寺
あるいは城崎温泉の温泉寺、あるいは道後温泉の石手寺の中の一つ)
と共に日本の三大薬師の一つとされています。
また鎌倉時代、仁西上人は12の宿坊を建てさらにかの豊臣秀吉は湯山御殿
を建てて江戸時代以降の有馬温泉の繁栄の基礎を固めた人物であります。
このことから行基、仁西上人、豊臣秀吉のことを有馬の三恩人と呼んでいます。
上の写真は行基像