2024年3月6日、JR宝殿駅で下車し宮本武蔵の生誕地候補「高砂市米田地区」を散策してきました。
過去2回、記事を書いてきました。間が空きましたがシリーズを再開し記事を書いていきます。今回は第3回として「田原 宮本家父祖之地」の石碑を紹介します。
過去の記事にリンクを張っておきます。 第1回 宮本武蔵の生誕地候補「高砂市米田地区」の散策記 on 2024-3-6 その1 西光寺 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第2回 宮本武蔵の生誕地候補「高砂市米田地区」の散策記 on 2024-3-6 その2 「宮本武蔵・伊織生誕の地」碑 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
「田原 宮本家父祖之地」の石碑は第2回で紹介した「宮本武蔵・伊織生誕の地」碑の北側にあります。
上の写真は「田原 宮本家父祖之地」の石碑の遠景 撮影:2024年3月6日
「田原 宮本家父祖之地」の石碑の近景 撮影:2024年3月6日碑文は宮本家第13代当主、宮本信男氏により書かれています。
上の写真は現地説明板
宮本武蔵(1584-1645)は播磨の守護職、赤松円心の二男、貞範を祖とし、その孫の時代に高砂米田へ移り住み、田原と改め土着。6代目当主甚右衛門家貞の次男として生まれた。名を玄信といい、美作宮本村(美作市大原町)の新免(のち宮本)無二之助の養子に出た。
無二之助は元は平尾姓でした。田原の縁戚に当たり、そのころは美作・竹山城主の新免宗貫の家臣でしたが、その活躍により城主から新免姓を名乗ることを許されました。後に、その居住地である宮本村からとって、宮本姓を名乗るようになりました。
ひろかずのブログではさらに詳細に調査され記載されています。 宮本武蔵 in 高砂(6) 赤松、田原、そして宮本へ - ひろかずのブログ (goo.ne.jp)
過去2回、記事を書いてきました。間が空きましたがシリーズを再開し記事を書いていきます。今回は第3回として「田原 宮本家父祖之地」の石碑を紹介します。
過去の記事にリンクを張っておきます。 第1回 宮本武蔵の生誕地候補「高砂市米田地区」の散策記 on 2024-3-6 その1 西光寺 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第2回 宮本武蔵の生誕地候補「高砂市米田地区」の散策記 on 2024-3-6 その2 「宮本武蔵・伊織生誕の地」碑 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
「田原 宮本家父祖之地」の石碑は第2回で紹介した「宮本武蔵・伊織生誕の地」碑の北側にあります。
上の写真は「田原 宮本家父祖之地」の石碑の遠景 撮影:2024年3月6日
「田原 宮本家父祖之地」の石碑の近景 撮影:2024年3月6日碑文は宮本家第13代当主、宮本信男氏により書かれています。
上の写真は現地説明板
宮本武蔵(1584-1645)は播磨の守護職、赤松円心の二男、貞範を祖とし、その孫の時代に高砂米田へ移り住み、田原と改め土着。6代目当主甚右衛門家貞の次男として生まれた。名を玄信といい、美作宮本村(美作市大原町)の新免(のち宮本)無二之助の養子に出た。
無二之助は元は平尾姓でした。田原の縁戚に当たり、そのころは美作・竹山城主の新免宗貫の家臣でしたが、その活躍により城主から新免姓を名乗ることを許されました。後に、その居住地である宮本村からとって、宮本姓を名乗るようになりました。
ひろかずのブログではさらに詳細に調査され記載されています。 宮本武蔵 in 高砂(6) 赤松、田原、そして宮本へ - ひろかずのブログ (goo.ne.jp)